メディヘン5

時々書く読書感想blog

アラン・ムーアヘッド『恐るべき空白 死のオーストラリア縦断』

私が読んだのは、カンガルーの遺骸の写真(岩合光昭撮影)が印象的なハヤカワ文庫NF版なんですが、今売られているのは、下側の“ハヤカワ・ノンフィクション・マスターピース”版のようです。

恐るべき空白
恐るべき空白
posted with 簡単リンクくん at 2006.10.30
アラン・ムーアヘッド著 / 木下 秀夫訳
早川書房 (1994)
ISBN : 4150500487
価格 : ¥777
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恐るべき空白
恐るべき空白
posted with 簡単リンクくん at 2006.10.30
アラン・ムーアヘッド著 / 木下 秀夫訳
早川書房 (2005.4)
ISBN : 4152086351
価格 : ¥2,415
通常2-3日以内に発送します。


■内容&感想

1860年、当時未知の空白地帯だったオーストラリア大陸中央部を踏査し、大陸横断ルートを発見すべく送り出されたヴィクトリア州探検隊の悲劇を描くノンフィクション。豊富な資料を元に、探検隊員個人の運命のみならず、当時のオーストラリア社会の熱狂ぶりから探検隊遭難に対するリアクションまでを描き出した力作。

あまり有名な話ではないと思うので、内容を少し詳しく……


18世紀の後半に英国人による植民が始まったオーストラリアは、ゴールドラッシュを経た19世紀中頃には、豊かな自然を背景に母国英国をもしのぐ繁栄を見せていた。しかし、賑やかなのは肥沃な土地の広がる沿岸部のみ。内陸部については、水も無い不毛の荒野や砂漠に遮られ、植民者達の手がおよばない未知の空間として取り残されていた。

とは言え、オーストラリア大陸の規模・形状そのものは海からの測量で明らかだったため、空間の広がりは想像はつく。となれば、いくら自然の障壁が厳しくとも、繁栄している植民都市群から探索の足が伸びるのは当然のこと。このため、19世紀前半より内陸部の探検が始まり、少しづつ内陸の様子が判明していった。

一方、実利的にも大陸中心部の探索と横断ルートの発見が求められる事情があった。当時も今もオーストラリアの南東部沿岸には、首都シドニーを始め、メルボルンアデレードといった都市が繁栄している。19世紀中頃、これらの大都市では、ヨーロッパとの通信手段が船便に限られていた。しかし、大陸を横断(縦断)して北側の都市から電信線が引ければ、アジアに伸びている通信網と接続して、ヨーロッパと直接通信することが可能となるのだ。

こういった状況から、1860年、ヴィクトリア州哲学協会なるメルボルン市の有力者達が集う団体が、初の大陸縦断を目指した探検隊を送り出すこととなった。探検隊の編成は、アイルランド出身の元警官バーク隊長率いる14名。彼らが目指した縦断ルートは、メルボルンから真っすぐに北上して、大陸北側のカーペンタリア湾を目指すもの。ちょうど、オーストラリア大陸の東側から1/3くらいのところを一直線に北上することとなる。(つまり、大陸南東部の岸が一番膨らんでいるところ(メルボルン)から、北側の一番凹んでいる海岸を目指す形)

市民の大歓声に見送られて出発したバーク探検隊は、その熱狂に見合った豊富な資材を準備していたものの、一方で、同時期に企画されたサウス・ウェールズ州探検隊との“レース”に勝つべく強いプレッシャーを受けていた。先を急ぐバーク隊長だったが、探検隊内の人間関係はまったく不調でまとまらず、遅々として行程がはかどらない。探検隊は、ベースキャンプを設置する予定だった当時の到達北限・クーパーズ・クリークの遥か手前、まだ酒場もあるあたりで、灼熱の盛夏を迎えてしまう。

業を煮やしたバークは、隊員の半数からなる先遣隊とともに、資材のごく一部のみを持ってクーパーズ・クリークに前進しデポを設営。さらに、先遣隊の半数4名にデポで待つよう言いおき、自分は他の3名とともに、3ヶ月分だけの食料を持って縦断を強行する。

クーパーズ・クリークは、ほぼ大陸の中央部と言える地点だったが、そこからの大陸縦断はさらに大変な困難を伴う。バークのアタック隊は、北岸海岸地域への到達に成功して初の大陸縦断を成し遂げるものの、クーパーズ・クリークのデポに帰り着いた時には4ヶ月が経過。食料は尽き、隊員の一名は死亡、バーク達も半死半生のありさまとなった。ところが……なんとかデポに到着したバーク達を待っていたのは、彼らがたどり着いたまさにその日の朝に、残る食料資材を持ってデポを離れたという残留部隊の置き手紙だったのだ。

バーク達はクーパーズ・クリーク周辺で糊口をしのぎつつ救援を待つが、結局助かったのは、連絡の途絶えた探検隊の捜索に派遣された救援隊に出会えた隊員一名のみ。バークと副隊長格のウィルズは、砂漠の地に倒れたのだった。

このバーク探検隊の悲劇の主因の一つには、先を急ぐあまり無理に隊を分割して少人数で縦断に挑んだ隊長バークの向こう見ずな性格にあったとされる。この点について著者ムーアヘッドは、バークのアイルランド人気質に触れ、次のように書いている。

たとえばアイルランド人は、あまりにも性急で、また軽佻浮薄の面がある。想像力がありすぎるかと思うと、一方ではあまりにも頑固である。そして逆説的はあるが勇敢でもありすぎる。……<中略>……(もちろんこういったからといって、のるかそるかの大事な場合に、アイルランド人はヴィジョンと成功する意欲を持つのに対し、イングランド人とスコットランド人は、ひどく頭がにぶくて頑固である、ときめてしまっているわけではないことを、断っておきたい)。

このバーク隊の悲劇から約50年後、南氷洋で遭難したエンデュアランス号を率いたシャクルトンアイルランド出身。以前読んだエンデュアランス号についての本によると、シャクルトンの人物評にも、まさに、この引用に書かれた点に相通じる点があったようで興味深いものがある。

さて、悲劇に終わったバーク探検隊だが、その最後について詳しい経緯や事情が判明しているのは、一つには、探検隊遭難の責任を糾明する調査委員会が開催され、生き残った隊員が詳しい事情を語ったことによる。本書では、この調査委員会の経緯についても詳しく触れられており、19世紀豪州人社会の雰囲気がうかがえる。

また、遭難した副隊長格のウィルズが詳しい日記を残しており、その日記が回収されたことも探検隊の成果と遭難の事情の把握に役立っている。このウィルズ、当時26歳の和鴨で、隊の測量をまかされた新進気鋭の科学者。若かったため正規の副隊長には任命されなかったが、常に隊長バーグに忠実で、大陸縦断に付き従い最後を共にすることとなった。彼が死に際して遺したという父親への手紙を読むと、理想に殉じた若者の姿が眼に浮かび、なかなか個人レベルの想いにまで想像がおよびにくい前世紀の探検の悲劇をより身近なものに感じさせてくれた。

メルボルンの人々にとって、この探検隊の遭難は衝撃的だったらしく、現在もバークとウィルズの像がメルボルンの州議会議事堂近くに建っているそうである。

著者のアラン・ムーアヘッドは、1910年にメルボルンで生まれ、そこで育った豪州人ジャーナリストで、第二次大戦時、北アフリカ戦線に従軍した経験により書かれた『砂漠の戦争』や欧州大戦全体を描いた『神々の黄昏』などの著者がある国際的ノンフィクション作家。彼も、このバーク探検隊には思い入れが強いのだろう、バーク達のルートを自ら辿った道程をエピローグ部に記し、バーク達の悲劇を偲んでいる。