メディヘン5

時々書く読書感想blog

読書メモ:アーシュラ・K・ル=グウィン『ファンタジーと言葉』

ル=グウィンによる物語論・創作論を中心としたエッセイ集。原書は2004年刊行(著者75歳、《西のはての年代記》三部作刊行開始前後のタイミングか)

それほど思い入れがある人では無いし、自分自身は創作しようというタイプでもないのだけど、読み流すには惜しい言葉が多かったので備忘録的に記録しておくことにした。

書名とエピグラフ

原書のタイトルは”THE WAVE IN THE MIND”で、巻頭に引用されたヴァージニア・ウルフの文章から取られている。

リズムは言葉よりはるかに深いところにある。ある光景、ある感情が心の中にこの波をつくりだすの。
ヴァージニア・ウルフ

ル=グウィンによれば、小説=物語はこの波から生み出されるものであり、(自分の中の)リズムが無いと書けないということが本書の中で繰り返し語られている。

個人的なこと

最初のセクションは、著者の個人的な体験を踏まえたエッセイ。

自己紹介

「わたしは男である。」というフレーズから始まる”自己紹介”。内容は、社会的な議論(メディア?)における女性の扱われ方=無視されてきたことに対する批判。

女っていうのは、ほんとにごく最近発明されたんです。女の発明って、たかだか数十年前ですよ。まあ、学問的な正確さにこだわるなら、あっちでぽつん、こっちでぽつんと、何度か女が発明されたことはありました。でも発明者には製品の売り込み方がわからなかったんです。

インディアンのおじさん

人類学者であった両親と関わりのあったインディアンの人たちの思い出。結核が「白い病気」と呼ばれていたということを初めて知った。また、ル=グウィンが「恥」という社会的な概念を重視するようになった契機が語られている。

わたしの愛した図書館

自分が出会った図書館の思い出から、自由にアクセスできる図書館の大事さが語られる。このエッセイ集の中で一番気楽に、楽しく読める。

これまでに読んできたもの

第二部では、いくつかの作品についてのエッセイから物語論が語られる。

幸福な家庭はみな

「幸福な家庭はみな同じように似ているが、不幸な家庭は、不幸なさまもそれぞれ違うものだ」(『アンナ・カレーニア』)という有名なトルストイの一節に対する違和感の表明。

現実にそこにはないもの − 『ファンタジーの本』とJ.L.ボルヘス

ボルヘス他『ファンタジーの本』英語版の序文として書かれたファンタジーの文学上の価値についてのエッセイ。オックスフォード英語辞典を引いてfantasyという言葉の語源と語義の変遷を概観する冒頭が洒落ていて楽しかった。さらに、そこから発展させてフィクション論・ファンタジー擁護論が展開される。

フィクションは、自分と異なる人間を理解するために、直接の経験を除けば最善の手段となる。

しかし、写実的なフィクションは、文化に規定されるものだ。

生活様式、言語、道徳律、習慣、暗黙の了解、ありきたりの生活の細部のすべてが写実的なフィクションをつくりあげている実体であり、力であるのに、別の時代の、別の場所の読者にはそれが曖昧で、解読不能なものになってしまうのだ。

ファンタジーもしばしばありきたりの生活を舞台にするが、リアリズムが扱う社会的習慣よりも恒久的で、普遍的な現実を原材料として使う。ファンタジーを作り上げている実体は心理的な素材、人類に共通の要素である。

これらの文章に続き、著者の決め台詞が登場する。

竜が野に姿を現す……。

文末部分では、『指輪物語』の「力の指輪」が大量殺戮兵器=核兵器のメタファーであることが語られるのだが、この解釈の原点はこのエッセイなのだろうか?

子どもの読書・老人の読書 − マーク・トウェイン『アダムとイブの日記』 ー

副題のマーク・トウェイン作品の序文として書かれたエッセイ。
子供時代のマーク・トウェイン全集にまつわる思い出から始まる楽しい文章から、作品論・マーク・トウェイン論が展開される。上手に書かれた批評はそれ自体が楽しいものである上、対象の作品を味わいを大いに深めてくれるという典型のような文章。

内なる荒れ地

(男性)文学者が恐れる先行テクストからの影響のナンセンスさが著者自らの作品「密猟者」とその原型である「眠り姫」の対比を通じて語られる……のだが、そもそも「先行テクストからの影響を恐れる」ということ自体がよく理解できなかった。これは、近代文学の成立自体に欧米作品の影響があることが自明な日本の読者だからなんだろうか。「眠り姫」の変奏ということからは、同じ枠ぐみのストーリーが大量に繰り返される「小説家になろう」の作品群を連想してしまった。

いま考えていること

このセクションでは、より一般的な題材のエッセイから、美やコミュニケーションの本質についての考えが語られる。

<事実>そして/あるいは/プラス<フィクション>

ノンフィクションと呼ばれているテクストの多くが<フィクションの反対>ではなく、フィクションそのものになってしまっている状況に対する批判。
冒頭、オックスフォード英語辞典に「ノンフィクション」の項目が無く、Mac上のシソーラスではフィクションの反義語にノンフィクションが無く、逆にノンフィクションの近い関連語にフィクションがある、というエピソードが印象的。

フィクションは「ほんとうに」でっちあげられた(メイド・アップ)のではなく、直接事実に由来するのだとするこの主張こそが、モードの混同を定着させ、その結果、相互的にとでもいうかのように、虚構のデータがノンフィクションと称するもののなかに入りこむことを許したのではないだろうか。

遺伝決定論について

社会生物学の提唱者E.O.ウィルソンの主張に対する批判。人間の社会的行動様式(男女の役割や男性の優越など)の遺伝的に決められているものかどうかの議論だが、主張の方向性を問わず議論を単純化しすぎだと思う。

犬、猫、そしてダンサー

犬は自分がどんな格好をしているかわかっていません。

猫は自分がどこから始まってどこで終わっているか正確に知っています。

わたしの知り合いのダンサーたちは自分の占める空間についてなんの幻想も抱かず、なんの混乱も感じていませんでした。

……といった楽しく興味深い前振りから、自分の肉体への認識や肉体の美、人の姿が持つ美といったものへの考えが綴られる。

コレクター、韻を踏む者、ドラマー

続いて、より一般的な「美」について。ある種のげっ歯類と鳥類と人間は、用をなさない目立つもの(=美しいもの)を収集する性質がある(コレクター)。ザトウクジラの歌には繰り返しと発展・変質がある。インディアンやギリシャ古典のような口承文芸では、定型句の繰り返しが重要な役割を持つ。(韻を踏む者)

声によるパフォーマンスにおいて、くり返しは演者がテクストを思い出すのを助けるために役立つだけではない。くり返しは、演目に構造を与えている根本的な要素の一つ、いや、おそらく唯一の要素なのだ。

実用的なメッセージはたくさんの「役に立たないノイズ」によって複雑化されるのだが、それは歌うことの快楽が−わたしたちが言うように、その美しさがーノイズそのもの、わざわざかけられた手間、骨折り、くり返し、遊びだからである。

散文にもリズムがあり、美がある。そのリズムは読者により沈黙の中で聞き取られる。(物言わぬドラマー)

物語を語ることは、物語の拍動をとらえることーダンサーがダンスそのものになるように、物語のリズムそのものになることだ。
 そして読むことも同じプロセスである。

大衆文学の世界では、同じようなパターンや登場人物、ガジェットの物語が飽きられもせずくり返し登場し読まれるというのが、ここで言うくり返しと関係があるのか気になった。その疑問に対する答えは次のエッセイで語られている。

語ることは耳傾けること

いきなり情報理論のコミュニケーションのモデル(送信者・通信路・受信者)がイラスト付きで説明されるが、それは単純すぎるとされる。(それはそうで、情報理論の講義でもこのモデルはコミュニケーションの内容に立ち入らない単純化されたものと説明される)著者の考えるコミュニケーションのモデルとして「セックスする二体のアメーバ」(=自分自身の一部を交換している)がこれもイラスト付きで紹介される。そして、人間のコミュニケーションは「相互作用的(インタラクティブ)」ではなく「相互主観的(インターサブジェクティブ)」なものだとされる。

続いて、文字によるコミュニケーションは歴史の中では最近登場したもので、長く口頭でのやり取りがコミュニケーションだったことが述べられる。文字による伝達は体制の効率化の道具として用いられてきたもので、相互主観的なものではななかった。ラジオやテレビもまた「台本」「原稿」の存在を前提とした文字コミュニケーションの延長上のもの。一方、声によるパフォーマンスは、話者のリズムと聴衆が同調することで、相互主観的なものとなる。そのリズムをもたらす重要な要素は「くり返し」である。

物語の語り手がオデュッセウスという名前やコヨーテという名前を口にするや、聞いているわたしたちは語り手が期待を満足させてくれるのを待ち受けるのであり、これを待つことは人生における大きな喜びの一つなのである。
 純文学ではなく、それぞれジャンルに分けられているエンタテイメント文学はこの喜びを提供する。

「終わりのない戦い」

独立後のアメリカを壊しかけた奴隷制をはじめとする抑圧の構造はなぜ生まれ、続き、繰り返されるのかについてのエッセイ。

もし人間が不公平と不平等を、口で言っているほど熱烈に憎いんでいるとしたら、偉大な帝国の数々、大文明の数々のうち一つとして十五分以上存続しえただろうか。

わたしたちの努力によっては、不完全な公平さしか、限られた自由しか獲得できないのだ。

しかし、公平さや自由の存在を知り自分が不公平な状態に置かれていることを認識することが大事なので小説を書き、別の世界がありえることを示すのだ、という流れ。

作家として書くこと

最後のセクションは創作論。

作家と登場人物

作家は登場人物を通じて(=登場人物の視点から)物語を書くが、両者は異なる存在でなkればならないということ。

作者の視点が作中の人物の視点と正確に一致している場合、その物語はフィクションではない。それは小説のふりをした回想録か、フィクションの体裁をとった説教である。

ハインラインの晩年の作品にはこういうのが多いような……

自問されることのない思い込み

作家は、読者が自分と同じような考えを持つと思ってはいけないということ。その種の問題のある思い込みの典型として性別・人種・セクシュアリティ・宗教についての思い込みと、番外として、「わたしたちはみな若い」という思い込みの悪影響が述べられる。

わたしがいちばんよくきかれる質問

このエッセイ集の中で一番の長文。ル=グウィン流のフィクション/物語の定義から始まり、そのフィクションが生み出される過程が丁寧に解説される。

タイトルにある質問とは、「そのアイディアはどこからとったのですか?」。著者の考えでは、物語のアイディアに直接的な「元ネタ」などは無い。

作家たちはどこからアイディアを得るのでしょうか。経験からです。これははっきりしています。
 そして想像力からです。これはそれほどはっきりしていません。

フィクションとは、想像力が経験を材料として働くことです。

そして、ル=グウィンは、想像力の文学を二流のものとして扱う主流文学界のみかたに意義を唱える。

リアリズムの作品が、そもそもの定義から、想像力の生み出した作品よりすぐれていると考えるのは、模倣が発明よりすぐれていると考えることです。

それでは作家はどうやって経験を広げるのか。それは読書から。読書については、こう語られる。

読むことは能動的な行為です。物語を読むことは、その物語に能動的に参加することです。読むことは物語を語ること、自分自身に物語を語り、物語を再び生きること、作者とともに物語を再び書くことです。

読んでいる読者が本を作る、本を意味へと導くのです。恣意的なシンボル、印刷された文字を、内的な、私的な現実へと変換するのです。読むことは行為、創造的な行為です

読むことは、テクストと読者の間の能動的なやり取りです。テクストは読者にコントロールされていますーとばしたり、停滞したり、解釈したり、誤解したり、戻ったり、考え込んだり、ストーリーの流れに身を任せたり、それを拒んだり、判断したり、判断を修正したりと、読者は真にテクスト塗装後に作用し合う時間と余裕を持っているのです。

最近、紙の本のページをを指で操って行ったり来たりを無意識に繰り返すことが読書にとって重要ではないかと思っていたので、この読書についてのコメントは腑に落ちた。

経験が想像力により姿を変えアイディアとなり、そこからテーマが定まる。その段階で物語を書き始めることができるわけではない。まず、登場人物が自分のなかに現れることを待つ必要がある。そして、自らの中の拍動、リズムをとらえることができれば、物語は自然に生み出されるーというのが著者の創作手法とのこと。
一方で、著者は、大きな物語は様々なアイディアが凝集し、連結して生まれるので、何がテーマとして中心になるかは物語が完成するまでわからないとも書いている。その場合は、風景と登場人物の2つが物語を書き始める上で不可欠と言っている。この2つの要素から物語を書き始めてるということは、小川洋子が『物語の役割』という創作論でも同様なことを書いていて興味深い。

年をとって書かずにいること

なぜ作家が書けなくなるかという、いわゆる ライターズ・ブロックに関するエッセイ。
頭で考えた登場人物では物語が書けない。登場人物が体に入ってくるような一体感が必要だが、それを得るためには待つしか無いとのこと。書けないときは書けない、ということか。

それは身体を通して伝えられる知だ。身体は物語であり、声がそれを語るのだ。